2009年03月31日

take thatよりtrevor horn

wet wet wetが曲を書き始め、duran duranはmark ronsonとスタジオ入り。嬉しいニュースには違いないがリリースは早くても来年、duran duranについては再来年のつもりでいたほうがいいだろう。また、いかに勤勉なhard-fiでも今年中のリリースは難しいと思う。

そうなると現時点でリリースが確定しているkasabianとchickenfootを除けば、期待してよさそうなのはmika、そしてrobbie williamsくらいのものであり、morrisseyとU2の素晴らしい新作が相次いだ前半と比べると、今年後半は少々寂しいことにもなりかねない。


そんなわけでrobbie willimasの新作にはさらに大きな期待がかかる。

しかも最近では、robbie williams不足がいよいよ深刻になり、自然と過去の曲を聴く回数も増え、それにより一層禁断症状に拍車がかかるという悪循環に陥ってしまっている。

しかし、レコーディングはしているらしいものの、確実な情報が伝わってこない。何かほんの少しでも希望の持てる情報を...、そんなところへ、またまたtake that復帰のニュース。


「もういいよ」と呆れつつ記事を目にして驚いた。

robbieの新作をtrevor hornがプロデュースしているとのこと。

さりげなく書いてあるが、個人的にはtake that復帰より、trevor hornプロデュースのほうが大ニュースである。記事のタイトルも「robbie、trevor hornをプロデューサーに向かえ新作をレコーディング」であるべきだ。



trevor hornといえば、YES/ABC/frankie goes to hollywood/seal等々、サッと思いつくだけでも、各年代を代表するサウンドと名曲に関わった、イギリスを代表する名プロデューサー。

ベテランも新人も、ポップもロックもダンスもソウルも、実験的なスタイルも王道も、何でも来いという恐るべき振れ幅を持つ、イギリスのポップ・ミュージックを体現するかのような存在でもある。

サウンドは外連味たっぷりで刺激的。その一方で例えばsealのkiss from a roseのような、正統派の絶品バラードを生み出したりもする。


こうして拙いながらもtrevor hornの音楽性を書き出してみると、そのまま現代を代表するポップ・シンガーrobbie williamsのそれと見事なまでに重なり合う。

trevor hornの全てがrobbie williams向きという感じがして仕方が無い。


こうなると、あれこれ想像しながら待つことさえも楽しそうではあるが、robbie williams不足もかなり深刻なため、やはり今年後半あたりが限界かもしれない。
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2009年03月30日

「泣いてね〜」

時節柄テレビを見ていると、番組を卒業する人が花束を手に涙ながらに挨拶するような場面を、特に先週末あたりは目にする機会が多かった。

そんな別れの場面に遭遇してそれなりにいいコメントなどを耳にすると、その人にも番組にも思い入れがないような場合でもジーンときてしまったりするのだが、それもほんの束の間、当然そんな別れの演出もテレビ局の匙加減ひとつと思えばいかにも馬鹿馬鹿しく感じられる。勝手に番組の担当を変えて、勝手に別れを寂しく思っているだけなのだ。


最近流行りの「泣ける歌」を扱った企画なども同様で、涙を強いられているとまではいかなくても、そのやり口にまんまと乗せられてしまうことには大きな躊躇いを感じる。

あらかじめ「泣ける」とか「泣いてください」などと煽るのは、聴き手に妙な先入観を与えることになるし、曲に対する侮辱にもなりかねない。


また、「どうぞ存分に泣いてください」と言われて素直に泣くのは、それを仕事にしているTVタレントくらいのもの。いい大人なら、意地でも泣かないようにするか、泣くとしても泣かないと悪いような気がして泣くのであり、流した涙にも何か余計なものが混じっているに決まっている。




かつて映画「男はつらいよ」で、お葬式だったか法要の席に紛れ込み親戚の写真を撮る役目を買って出た寅さんが、つい「ハイ、笑って〜」と言ってしまった後、慌てて「泣いてね〜」と言い直すシーンを見て大笑いしたことを思い出した。


作為の無いものなど無く、疑えばきりも無い。また思わず涙を流すことで心が潤うこともあるのだから、別れの演出も泣ける歌もあっていいとは思う。

ただ現状はあまりに露骨過ぎて、まるで寅さんの「泣いてね〜」のように間が抜けていて、泣くどころかむしろ笑うのに適しているよう感じられるのである。
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2009年03月28日

oasisの音聴いて我が音直せ

昨晩のミュージック・ステーションでのoasis。まさかの大トリ、しかも2曲、特説ステージもカメラ・ワークも素晴らしく、「Mステの歴史に残る名パフォーマンス」という煽りも決して大げさではなかった。

liamの声の状態が万全ではなかったこと、the shock of the lightningのグルーヴが(CDと比較すると)物足りなかったことを差し引いても、非常に見応えのあるパフォーマンスだった。falling downはCDよりも良かったように思う。


つまり2時間半待った甲斐がある内容だったわけだが、それにしてもその2時間半はただひたすら苦痛であり、ほとんどoasisのステージを引き立てるために故意に醜態をさらしているようにしか思えないほどだった。

仮にも日本を代表する音楽番組だというのに、1曲として直球勝負できるような曲がなく、それゆえにやたらと派手なサウンドと大げさな節回しばかりが耳につき、これを聴いたliamやnoelはどう思っているのだろうかと考えると、日本人として恥ずかしいような気さえした。


また、そんな世界最高峰のロックバンドのステージを目の当たりにした日本のアーティストが、いかにして自らの音楽との溝を解消するつもりなのか、それとも聴かなかったことにして現状維持に汲々とするだけなのか、そもそも最高のものを理解する感受性が欠けているからこそこんな醜態をさらしているのではないか...などと、情けなさと腹立たしさと皮肉混じりに余計な心配をせずにもいられなかった。

千代の富士が貴乃花に敗れて引退を決め、島田紳助がダウンタウンの漫才を見てコンビの解散を決めたように、oasisのステージを目の当たりにして、引退とまではいかなくても自らの姿勢を省みるようなアーティストが出てこなければおかしいと思う。



実際、満を持して登場したoasisのサウンドは、明らかに日本のアーティストの楽曲及びパフォーマンスとは別次元のものであり、目の前に立ち込めていた霧がスーッと晴れていくような気持にさせられた。

それなのに、例えばアンコールでnoelがwhateverを歌っている様子を見て「(会場に)行きたい」と言った某アーティストなどは、圧倒的な存在を認めるのが口惜しいからか、自らが及ばないことに気づかないほど鈍感または傲慢だからか、別次元のものとして割り切ってこれまでどおりビジネスに邁進するだけだからなのか...、いずれにしても本当に会場に行きたいと思えば行けたはずのところを行かずに済ませ、そんな尤もらしい口を利くのである。


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2009年03月27日

再結成ブームに乗る資格

ついにspandau balletも再結成。一時的にライブを行ったことはあったようだが、10月から行われるワールド・ツアーが正式な再結成となるらしい。

イギリスでの人気は申し分ないものの、果たしてそれ以外の国まで巻き込んだワールド・ツアーが成立するかどうかについては多少心配な面もある。
とはいえビジネスとして成立する見込みがなければ、そもそもこれほど大々的なツアーが企画されるはずもなく、やはりそんな心配をよそに盛り上がるに違いない。

何もそれは今回のspandau balletの再結成に限ったことではなく、金目当てなどという冷やかしもかえって野暮なほどに、最近の再結成ビジネスは隆盛を極めている感がある。



再結成がブームとなり、例えばイギリスを中心に再結成バンドを含む80年代のアーティストによるツアーが盛んに行われるうちに、ファンとしての複雑な感情さえ麻痺するようになり、再結成そのものに対する免疫がすっかり出来上がってしまったのだと思う。

80年代のバンドについてちょっと考えてみても、すでに再結成をしていないバンドを探す方が難しくなっている。G.I.orangeとかnational pastimeくらいしか思い浮かばない...。
再結成を待つファンが相当数存在するバンドに限れば、もうほとんど再結成済みと言っていいような状態だ。

これでは、ファンもバンドも再結成をしない方が不自然なような、再結成をしなくては損だというような気持になるのも当然である。


また、猫も杓子も再結成となると必然的に再結成の価値は下がり、解散の衝撃も薄れるものだが、それぞれの世代ごとに思い入れのあるバンドが存在し、そのファンが解散の衝撃と再結成の喜びを受けとめるのだから、つまりビジネスとしての再結成に関しては音楽自体がこれまでのように親しまれていく限りは安泰のように思える。


したがって、むしろ気にしなければならないのは、後の再結成ブームの元となる現在の音楽シーンのほうなのである。

80年代バンドを中心とした再結成ブームも、ビジネスライクな側面があったとはいえ、再結成を求めるファンの声がなければこれほど盛り上がらなかっただろう。
つまり10年、20年経ってもいい曲だったと振り返られる魅力があればこそブームとなり得たわけである。

確かに世代ごとにヒット曲は生まれるし、忘れがたいアーティストも出てくるもの。
しかし、現在の音楽シーンにはびこる、どこかで聞いた度が日増しに強くなるメロディや安易なサウンドが、10年後20年後まで繰り返し聴かれ続け、(無論そこに音楽的なクオリティだけではなく、様々な時代背景も影響しているのだとしても)昨今のような再結成ブームに帰結するほどに愛され続けるかどうかといえばそれはまた別の話だろう。


そういう意味では、再結成ブームを作ったバンドには是非ともライブだけで終わることなく、今こそ20年を経ても忘れられない楽曲を生み出したその底力を見せつける気概を持ち、充実の新作をリリースすることで現在の音楽シーンに喝を与えて欲しいと思わずにいられない。

またそれこそが、「再結成ブームに乗じた」の「金目当て」のと、そんな誹りを免れるための唯一の方法だと思う。
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2009年03月26日

シングル“something is squeezing my skull”の楽しみ方

years of refusalからの次のシングルはsomething is squeezing my skull、リリースは4月27日になるようだ。

black cloudという噂もあったし、jeff beck参加という話題性からしてもそれが妥当な線だろうと思っていたのだが、そういった常道など端から意に介さないからこそmorrisseyなのである。

そして、まるでヘビメタやゴスのようにおよそポップ・チャートには相応しくないタイトルの、2分38秒の曲中の約1分間に渡り「もうたくさんだ」とひたすら繰り返すような曲をシングル・カットしたところで、ファンも今さら驚きはしない。

もはや納得するに留まらず、こんなタイトルの曲がポップ・チャートにランク・インすることに快感を覚えるのがmorrisseyファンとしての健全な反応でもある。



さらに、カップリングにはbest friend on the payroll/this charming man/i keep mine hiddenのライブ音源が収録されるのだから、shame is the nameを収録し、見目麗しきインナー・スリーヴが余計に価値を高めてしまったi'm throwing my arms around parisに劣らぬ魅力的なシングルとなること請け合いである。


中でも先日ついにその封印が解かれたthis charming manが最大の聴きどころ。

最近のmorrisseyサウンドに適応した、iggy popのlust for lifeのような感触のラフな演奏は、確かにオリジナルの肝でもあるmarrの繊細かつ切れ味鋭いギター・サウンドと比べるとどうしても見劣りする。

しかし、ボーカリストとして絶頂期にあるmorrisseyが、marrとともに生み出した珠玉の名曲をこれほど見事に歌い上げるとなれば、オリジナルの比較など取るに足りないこと。

“I haven't got a stitch to wear”と強靭に歌い上げる、シャツのボタンがはちきれんばかりに恰幅のいい50歳を目前にした男の姿に酔いしれるのが、やはりmorrisseyファンなのである。

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2009年03月24日

嘘から出なかったまこと

maniに煽られたこともあり、もしかしたら無い話ではないのかもしれないとちょっと期待していたthe stone rosesの再結成。

しかし、「デビュー20周年記念ツアー決定」のニュース」があっという間に否定されてしまったところで、そんなことはこれまで何度もあったわけで、落胆するほどのことではない。

ただ、今回はその後がよろしくない。


「J・スクワイア、アートでストーン・ローゼズ再結成を否定」2009-03-20 BARKS

http://www.barks.jp/news/?id=1000048012

「元ストーン・ローゼズのギタリスト、ジョン・スクワイアが、アート作品においてバンドを再結成する意志がないことを表明した。

スティールでできたこの作品には、『I HAVE NO DESIRE WHATSOEVER TO DESECRATE THE GRAVE OF SEMINAL MANCHESTER POP GROUP THE STONE ROSES(何があっても、偉大なマンチェスターのポップ・グループ、ストーン・ローゼズの墓の神聖を汚す気はない)』と記されている。18.03.09(2009年3月18日)とも入っており、ストーン・ローゼズの再結成ツアーが決まったとの報道が流れた直後に作られたものとみられる。ただの声明文よりインパクトも重みもあり、リユニオンを期待していたファンに留めを刺した。」



この作品は、錆びついた箱状のものが展開されたところへ、その声明文が書かれているというもの。
声明文の内容もさることながら、錆びついて展開(解体)されたその形状に込められた意味を深読みすると、やはりファンとしては深刻に受けとめざるを得ない。

ファンの期待が大きいからこそ火の無いところに煙も立ち、噂で飯を食うのがマスコミなのだということもよく分かっている。

しかし、結果的にjohnの再結成に対する明確な意思表示を引き出すことになってしまった、そのタイミングゆえにあまりに真実らしかった噂は、再結成にかすかな期待を寄せていたファンにとって、「よくあること」と訳知り顔で見過ごすことはできそうにない。

また、再結成の可能性がないことが明らかになったことで、この先要らぬ期待をすることも、マスコミに踊らされることもなくなったと淡白に割り切れるものでもない。


ファンとは時に真実を知るよりも、あるかもしれない再結成を想像しているほうを好むものなのである。
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2009年03月23日

涙にかすむ真実

「卒業の歌」や「桜の歌」に舌打ちするのは、日本の音楽シーンの現状を憂えばこそ。それがこの時期のムードに水を差す、いかにも野暮な振る舞いということも承知している。

実際自らを顧みても、親しい友人や世話になった恩師または家族との別れに際し、涙のひとつも流さないような薄情なタイプではない。それどころかそんな雰囲気にはめっぽう弱い。条件反射で人より余計に涙を流し、正気に戻り周囲に白々しく映りはしなかったかと心配してしまうことも多い。それこそ大げさで安っぽい「卒業の歌」みたいによく泣く男である。


だから、大げさで安っぽいとか甘すぎるなどと評されるような切なく悲しい歌も嫌いではなく、例えばjohnny hates jazzのturn back the clockなどをこの時期に聴いたりすると、あっという間にノスタルジックな世界に引きずり込まれ、しばらく這い上がれないほどにどっぷりとその世界に浸りきってしまう。


johnny hates jazzの1stアルバムのタイトル曲turn back the clockは、shattered dreams/i don't want to be a heroと並ぶ、彼等(というかclark datchler)の代表曲である。

古き良き時代を思い出して涙し、時計の針を戻してあの頃に帰りたいと嘆く、救いようのない、ひたすらに後ろ向きな歌詞は、昨今の「卒業の歌」的な感触といっていいのかもしれない。

しかし、だからこそかえって“but without these memories where is the love”という一節が効いているし、シンセ指向の強いサウンドが今となっては勿体ないほどに切なくも美しいメロディは言うまでもなく、昨今の「卒業の歌」のような安易さは決して感じられず、実に素直にそのノスタルジックなムードに誘われるのである。


そんなノスタルジックなムードからふと顔を上げて現実に戻れば、心の感じられない安易としか思えない「卒業の歌」や「桜の歌」ばかり。

せっかくの清々しい気持もそこそこに、そんな現実に対してシニカルな口を利いてしまうのは自分としてもできれば避けたいことなのだが...。




雰囲気に弱く条件反射で泣ける性質に加え、泣いてこそ卒業らしくなるという思い込み、さらには涙で卒業を盛り上げなければならないという義務感みたいなものに突き動かされるままに、率先して涙を流した中学校の卒業式。

教室のあちこちから聞こえる鼻をすする音とともに、いよいよ切なさと寂しさが最高潮に達してくる。ここで金八先生風の最後の一言があればもっと泣けるという絶好のタイミング。

しかし、担任は何を思ったか「この時期こそ自分が変われるチャンスである」というようなことをやけに強調しはじめた。

「過去よりも前を向け」というのは尤もではあるが、尤も過ぎる。この別れのシーンに相応しい、後ろ髪を引かれるような悲しく切ない思い出話がいくらでもあるはずじゃないか、何故今その場違いなほどに前向きな話をしなければならないのか...と、せっかくの涙も乾いてしまうくらい大いに戸惑った。



しかし後に振り返ってみると、そんな一過性の湿っぽい雰囲気に乗じた安っぽい話より、その担任教師の場違いなほどに前向きな言葉のほうがよほど心に残っている。
湿っぽいムードに引きずられたまませっかくのチャンスを失うことのないように、注意を喚起する意図があったのだろう。卒業式らしいお涙頂戴な言葉よりはるかに生徒への思いやりに満ちた言葉だったと思う。


僕が、野暮を承知のうえで「卒業の歌」や「桜の歌」にケチをつけてしまうのも、つまりその担任の先生のような気持からなのである。





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2009年03月22日

至れり尽くせり

oasisのfalling downがアニメ主題歌に起用されることになり、それに伴い日本でもシングルとして発売されることになった。

oasisのイメージからすると到底あり得ないようなアニメ主題歌との組み合わせにも驚いたが、映画主題歌に起用された1stシングルthe shock of the lightning、来日記念盤となった2ndシングルi'm outta timeに続き、これでアルバムdig out your soulからのシングル3枚全てが、日本においてCDシングルとして発売されることになったのは更なる驚きである。

洋楽のシングルについてはほとんどダウンロード中心になっている昨今、1枚のアルバムから3枚のCDシングルがリリースされるのは異例中の異例といっていいだろう。

さらに今週金曜日にはミュージックステーションへの生出演も控えているのだから、普段日本のレコード会社の冷淡な側面しか知らない僕にとっては、「至れり尽くせり」とか「VIP待遇」などという表現では足りないくらいである。

oasis級の人気なればこそ、レコード会社の普段は鉛のように重いフット・ワークをこれだけ軽快にすることも可能なのだろうが、それにしても露骨過ぎる。

売れないアーティストとのバランスも考慮せず、金にならない仕事はしないという本音だけで突き進むと、音楽を扱う会社としては色々と都合が悪い面も出てくるのではないか...とつい余計な心配もしてしまう。それほど露骨すぎると思う。


例えばレコード会社のオフィシャルサイトでさえ発売日が間違ったままだったり、5ヶ月遅れでやっと発売されたと思ったら変な邦題をつけられたり、入らぬボーナストラックが収録されたり...、自分の好きなアーティスト達の冷遇振りと比較してしまうと、どうしてもそんな皮肉めいたことを言わずにはいられない。


しかし落ち着いてみれば、oasisのこのVIP待遇も、ちょうどブリット・ポップ期に学生時代をすごした人達がレコード会社やテレビ業界において、それなりの発言権を持つ年代になったことが影響していると考えるのが妥当だろう。

レコード会社に入り好きなアーティストと関わったり、自分の仕事に好きな曲を使うことでそのアーティストに恩返しが出来るのは、音楽好きにとっては夢のようなことであるはずだから、今回ももしそういう純粋な気持が反映しているのだとすれば、僕の好きなアーティストの冷遇振りはさておき、素晴らしいことだと思う。


ただそれでも、あの映画にはthe shock of the lightningは合わなかったし、本当にoasisが好きなら、今回のアニメの絵とfalling downを合わせようとするはずがないとも思う。
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2009年03月21日

FMに愛を込めて

昨晩、くだらない番組を避けているうちに、NHKの「プレミアム10『FM40年記念番組 FMに愛を込めて』」に行き当たった。

きっとFM放送全般についての生真面目な内容だろうと何気なく見ていたら、BGMにduran duranのthe reflexが使われたのを皮切りに、「ラジカセ」に「エアチェック」、「サウンドストリート」に「FM誌」などという言葉が飛び交う、まさに僕にとってはど真ん中の番組だった。

特にFM誌について取り上げた番組なんてこれまで見たことが無かっただけに、FM誌の番組表に蛍光ペンで印をつけ、ラジカセのボタンに指を置きながら録音のタイミングを待った世代にとっては胸躍らずにはいられなかった。



当時は「サンスト」と略していた、NHK-FM「サウンドストリート」。僕は佐野元春より、坂本龍一や渋谷陽一の方に馴染みがあり、坂本龍一のデモ・テープ特集はテープに録音して繰り返し楽しんだ。

おそらく約20年ぶりに聴いた、TOKYO FM「サントリー・サウンド・マーケット」のシリア・ポールのオープニングは本当に懐かしく、またとても美しく感じた。最近はラジオにしろテレビにしろ、こういう美しく落ち着いた声を耳にする機会が減ってきているような気もする。

小林克也で思い出したのは何故か音楽番組ではなく、高校生の頃学校へ行く前に聴いていた「100万人の英語」。小林克也とケント・デリカットが担当する曜日は、洋楽の歌詞を用いて単語や用法を解説したり、またリスナーが洋楽を歌ったものを放送していた。
洋楽好きにとっては歌詞を教材として使うことは楽しいうえに、覚えやすく忘れにくく非常に役に立ったし、リスナーが洋楽を歌うコーナーも、例えばpaul mccartneyのno more lonely nightsを歌い、キーが合わずにサビで低音に急降下するような人もいたりして、学校へ行くのが憂鬱な朝から大笑いすることもあった。



(後に24時から第二部が始まるようになるまでは)「クロスオーバーイレブン」を聴いた流れで、「ジェットストリーム」の城達也のナレーションを耳にすることが毎晩の日課のようなものだった。

だから、昨晩の番組で「クロスオーバーイレブン」に触れられなかったのは意外だった。

「クロスオーバーイレブン」こそ洋楽好きにとってエアチェックが欠かせない番組だったし、津嘉山正種のナレーションこそあの時代のFMの代名詞だった。
FM誌の番組表に曲目が全曲掲載されていた点も昨晩の番組で扱うのに相応しかったと思うし、選曲者の話なども是非聞いてみたかった。



FM誌の衰退について、番組内ではCDとレンタルの影響とされていたが、当時のリスナーの実感としては、FMがAMラジオのように変化していったことが大きかったように思う。

もちろんCDやレンタルの登場が背景にはあるものの、そういった波にあっさり飲み込まれ、あくまでも選曲にこだわり曲をじっくりと聞かせるというFMならではのスタイルを早々に放棄し、まるでAMのようにおしゃべりをメインに据えてしまったことが実は最大の原因だった。

曲紹介がイントロにかぶるようになり、放送曲目が事前に伝えられる番組は激減した。「クロスオーバーイレブン」の曲目さえ「未定」となる回数が増え、FM誌にも放送後に掲載されるようになってしまった。自然とラジカセのボタンに指を乗せ、録音のタイミングを待つ機会が少なくなった。FM誌を買う意味が無くなった。


個人的にも、そんな風にFMがAM化していく中、最後の砦というべき存在だった大伴良則氏の番組(NHK-FMの10時台だったが、その頃のタイトルはすでに「サウンドストリート」ではなかったような気がする)が終わってしまってからは、めったにFMを聴くこともなくなった。

(NHKのこの手の番組には今や欠かせない存在でもある)萩原健太氏が「かつてはいい音楽が聴けるメディアだったFM放送が、人気アーティストや芸人さんがFMのDJを担当するようになり、紹介できる音楽の幅が狭まってきている」と指摘していたように、つまりそうすることでFM放送は生き残り、一方でFM誌は衰退を余儀なくされたわけである。


インターネットを通じてFMよりはるかに効率的に音楽と触れ合うことが出来るようになった現在となっては、もうその古きよきFMの頃に回帰する必要もなく、ノスタルジックな思いで振り返ってみるばかりだが、今でもFM誌が存在しているという驚くべき事実を前にして、音楽を中心にDJとリスナーが強く結びつくことが出来た本来のFMらしいスタイルについては、ラジオを介さなくとも、いつまでも大事にしていかなければならないと思った。




番組の後半、新しい朝の連続ドラマの宣伝もかねて「コミュニティFM」の話に脱線してしまったのは残念だった。私物化され、内輪受けに終始しがちなコミュニティFMは、40年のFM放送の歴史とはあまり関係ないと思うのだが。


また、アルフィーの曲が3曲というのも番組の趣旨からするとあまり必然性が感じられなかったのだが...、中高生の頃地元のNHK-FMで土曜日の午後に放送されていた「リクエスト・アワー」で、当時の全国的なレベルと比較しても不自然なほどにアルフィー人気が高く、新曲を出せば必ず1位になっていたことを思い出した。

そういう意味では、確かにNHK-FMとの結びつきは強かった印象が残っているし、またもしかして当時アルフィーのためにリクエストハガキをせっせとNHK-FMに投稿していたリスナーが、この番組を企画したのかもしれないなどと考えてみると、今回に限り大目に見てあげてもいいような気がした。

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2009年03月20日

duran duran back in the studio

duran duranが13枚目となるアルバム製作のためにスタジオ入り。噂されていたとおり、mark ronsonが参加している。

mark ronsonが最終的にどの程度関わるのかについては不明だが、昨年の7月2日にパリで行われたSmirnoff Unites Music Titans for Unique Live Event:Duran Duran vs. Mark Ronson and Moreにおける共演からもその相性の良さが感じられ、密かに次回作のmark ronsonプロデュースを期待していただけに、個人的にも非常に嬉しいニュースである。

もう「skin diversのmark ronsonリミックスはどうしたの?」なんて言っている場合ではない。


mark ronsonはduran duranのファンであることを公言している数少ないアーティストの1人。それだけでも十分なところに加え、Duran Duran vs. Mark Ronsonのステージで聴かれたmark ronsonによるアレンジ振りも、ファンならではの実に心憎いものだった。

そして、ステージでは抑え気味だったmark ronson的なR&Bやソウル志向も、多様な音楽性を持つduran duranにとっては望むところだろうし、あくまでもライブなグルーヴを中心に据える彼のスタイルが、timbalandサウンドよりduran duranになじみやすいことについては言うまでもない。


mark ronsoにしても、オリジナル曲に秘められたグルーヴを抽出しよりダンサブルにソウルフルに料理するお得意の手法などは、それこそロックとダンス・ミュージックの融合の先駆的存在でもあるduran duranにあってこそ存分に発揮されるに違いない。

また、クラシカルな感触やソウル指向のメロディは、duran duranに何度目かの新境地をもたらす可能性もあるのではないだろうか。



シングル曲の選択ミスによるところが大きかったとはいえ、売り上げ的には惨敗してしまったred carpet massacre。

duran duranにとって正念場となるであろう新作に、mark ronsonはこれ以上ない最強の助っ人となるに違いない。
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