2009年07月31日

Dr.Carter,I Presume

こうして25年間音楽を聴き続けているのは、偶然にも僕にとって大切なアーティストが、紆余曲折や長い空白の期間がありながらも活動を続け、新しい作品を届けてくれるからである。

もしも、duran duranが多くの80年代バンドと同様に解散と再結成を経て単なる懐メロバンドとして活動を続けたり、morrisseyがmaladjustedを最後に帰らず、wet wet wetが再結成に至らなかったりしたら、少なくともこれほど熱心に音楽を聴き続けてはいなかったと思う。




先日久し振りにERを見たら、偶然にもカーターの出演回だった。

ERは大好きなドラマだが、カーターとベントンの師弟関係が終わり、グリーンが脳腫瘍でこの世を去る第8シーズン以降は徐々に興味が続かなくなり、ロマノの最後を見届けた後はついに気が向いたら見るという感じになってしまった。

長い歴史のあるドラマゆえにメインキャストの入れ替わりも凄まじく、現在NHK総合で放送されている第12シーズンにおいて、初期から残っているのはスーザンとケリー、中期からはコバッチュとアビーくらいのもの。第1シーズンからのキャストはスーザンだけだが、彼女は出戻りで不在の期間も長い。コバッチュはついにキャラクターが定まらないままという感じだし、アビーにはカーターとコバッチュの間を行ったり来たりという印象しか残らず、キャロルの後任としてはあまりに物足りなかった。唯一思い入れのある、最古参となったケリーも次の第13シーズンが最後らしい。ということでさらに縁遠くなりそうである。


そんな風に主要キャストが入れ替わる中、唯一変わらない存在であり続けたのがロマノだった。最初から最後まで、(視聴者には)時折優しさを見せながらも、ERにとってはずっと狡猾で居丈高で嫌なヤツのままだった。自らに降りかかった事故の後でさえ変わることのなかったその強固なキャラクターは、変わり続けることが信条である物語の宿命として、すでにその求心力が失われつつある中で、最後まで変わらない存在として図らずも物語終盤を支える役目を担うことになったのである。ただ、その後も変わることなどあり得ないロマノの居場所がERという物語の中に用意されているはずもなく、しばらくして唐突で皮肉で寂しい最後を迎えることを余儀なくされるのである。


そういう意味では、第8シーズンでその成長物語が終わりを迎えたカーターが、第11シーズンを最後にERを去りアフリカの難民キャンプで医療に従事するという展開も、つまりERに彼の変化の余地がなくなったからと考えるべきなのである。変化が信条の物語において、医師としての成長という最も著しい変化を見せ続けたカーターには、その後ERの中で語られる物語があるはずもなく、彼が更なる変化を続ける場所はER以外の場所に求められなければならなかった。第1シーズンからのメインキャストということで、第11シーズンまで延命措置が施されたものの、物語とカーターというキャラクターに誠実であるならば、本来はもう少し早くERを去る運命にあったはずである。


それを証拠に、すでに第8シーズン以降、カーターの延命にも関わらず、また内容についても相変わらずのクオリティが維持されてはいるものの、物語としての求心力が失われていくのは誰の目にも明らかだった。第12シーズンを見ても、まるで過去のERを力なく、もしくは大袈裟に焼きなおしているような印象をぬぐえない。中心に据えられるグリーンという存在、またはカーターの成長物語を無くしては、ただ医者と看護師と患者の数だけ散漫に断片的に物語が展開するだけであり、それは無論過去のERの物語を凌ぐものとはなり得ないのである。


その一方で、むしろERから遠く離れたアフリカの地で成長を続けるカーターの姿にこそ、ERの心が感じられるような気がするのは、何も長く主要キャストを務めたからというわけではなく、その姿が変化こそ信条であったERの物語性を受け継いでいるからに違いない。カーターは変化し続けることで、荒涼としたアフリカの地にあっても、第1シーズンとはまるで別人のようにたくましくなったとしても、未だERの象徴足りえているわけである。

それゆえにすでにERへの興味を失った僕をしても、カーターのその後については見届けてみたいと思うのである。


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2009年07月30日

夏の一大イベント?

旅行の予定もなければ、祭りにも縁遠い。夏が好きといいながら、お盆に墓参りする以外ほとんど何も決まっていない僕にとって、唯一の夏の恒例行事といえば夏のプレイリストを作ること。といっても別に誰かに聴かせるためでもなく、1人で選曲して1人で楽しむだけ。

「一体そんなことをして何が楽しいのか?」という疑問には、「金もかからず他人に迷惑もかからないうえに、普段アーティスト単位で聴いている楽曲を夏というキーワードの下に味わうのは新たな発見にもつながる、真の音楽好きだけに許された高尚な遊びである」などと尤もらしい言い訳を用意できないこともないが、何のことはない、大好きな季節に聴きたい曲を聴きたい順番に並べることが楽しくて仕方ないだけのことである。


パソコン以前にはCDからテープに編集し、それを帰省の新幹線で楽しんだりしたわけだが、現在はiTunesのおかげで、あーでもないこーでもないと何度でも入れ替えることができるために、さらにその楽しさに拍車がかかる傾向にある。時におよそひとりで楽しむだけとは思えないほどに熱中し、こねくり回すのには我ながら呆れてしまうものの、それでも楽しいことに変わりはないし、CDを一枚ずつ引っ張りだしテープに録音していた手間からすればやはり随分と楽である。

さらに、これまでのプレイリスト作りの中で、すでに定番曲が確立されているため、あとはそこに、前年の夏以降にリリースされた新曲及びリイシューされた過去の曲と、その夏の気分で選んだ曲が加わるだけなので、選択肢もだいぶ限定される。


例えば、以下は大定番曲。これらの曲を知らずに、一体どうやって多くの日本人は夏を味わい尽くし得るのだろうかと余計な心配さえせずにはいられないほど、本来夏に欠かしてはいけない曲である。

everybody wants to rule the world/tears for fears
big sur/the thrills
eternity/robbie williams
the road to mandalay/robbie williams
fans/kings of leon
arizona/kings of leon
calling you/jevetta steele
brushed with oil,dusted with powder/scritti politti
mysterious ways/U2
you spin me round/dead or alive
make it tonight/wet wet wet
stay with me heartache/wet wet wet

ここに、今年上半期の新作から、cage the elephantのin one earやfree love、golden silversのplease venusなどが加わり、さらに新作への期待を込めつつ、prefab sproutはhey manhattan!、hard-fiならwe need loveがジメッとした感じでいいかな...、という具合に今年の夏のプレイリストが出来上がっていくわけである。


今年は天気もいまひとつスッキリせず、また海から帰って以来サーサーという優しい波の音が心地いいまま耳の奥に残っていることもあってなかなか気が乗らなかったのだが、あと1週間ほど続くはずだった梅雨空からは、あっという間に太陽が顔を出し、カレンダーを見ればもう7月も終わり。何時になるか分からないと言っていた梅雨明けも、涼しい顔で来週早々へと繰り上げられた。

そんなわけで少々あせりつつ、しかし存分に楽しみながら夏の恒例行事をひとり満喫しているところである。

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2009年07月29日

morrissey大百科

今日も昼過ぎから雨になった。梅雨明けが8月にずれ込むことは確実らしい。週間予報を見ても8月4日まで晴れマークは見当たらない。


待たされるのが馬鹿らしくなり一度キャンセルしたthe rumble stripsのwelcome to the walk aloneは、発売から2週間を経てやっと入荷された。しかし今度は一緒に注文するつもりだったa-haのfoot of the mountainがなかなか入荷されない。jimmy somervilleのベストも、amazonには在庫があるのに、HMVでは入手困難のまま。

mikaのwe are goldenにはデラックス仕様があり、しかも日本先行発売ということで喜んだのも束の間、その翌日には延期のためか、仕様の変更によるものか、生産中止の表示になってしまった。

すでに聴いているはずのCDも無く、楽しみな作品が相次ぐ9月のことを思えば、mikaに留まらずまだまだ不確定な要素はいくらでもある。それはまるで、停滞する梅雨前線の下、長引く梅雨を憂うような心境である。



そんな中届いたのがmozipedia:the encyclopaedia of morrissey and the the smiths。

発売日の後すぐに「入荷までの1週間から3週間」と表示され、僕のところにも入荷が8月上旬になるという旨のメールがあったにも関わらず、それから2日後に届いてしまった。

荷物を受け取った時のズシリとした重さにも驚いたが、開封して実際にページをめくり、その「morrissey大百科」のタイトルに負けないヴォリュームにはもっと驚いた。公認というわけではないのでファンの間にも賛否両論があるようだが、巻末の出典・参考文献の凄まじさを見ただけでも、おそらく第三者の仕事としてはこれ以上ない程のレベルに達しているものと思われる。

years of refusalはもちろん、southpaw grammarとmaladjustedのデラックス盤についてまでフォローしているところにも、著者simon goddardという人のこだわりと情熱が感じられる。また特にこういった辞典スタイルでは、よくあるバイオグラフィーの類とは違い、ごまかしがきかないだけにより精緻な調査が必要とされるはずである。

思い入れと妄想に終始し一向に役に立たないことを書き散らかし、ひとり悦に入っている身からすれば本当に頭の下がる思いがする。ファンとしても賛否両論や、それぞれの項目についての異論等はさておき、まずこうしてmorrisseyの活動を整然と1冊にまとめ上げてくれたこと自体に感謝すべきだろう。

実際、数ページ読んだだけでも知らないことや興味深い話が満載で、一度開いたらなかなか顔を上げることが出来ない。少ないながら写真のチョイスにもセンスが感じられ、特に過去・現在・未来のmorrisseyを並べたページなどは、ほかでは見ることができないだろう。500ページのどこをめくっても、morrisseyのことが書いてあるというのも、当たり前のこととはいえ嬉しい。

子供が飽きもせず大きな百科事典に顔をうずめるように、このmozipediaを夢中でめくるうちに夏がやってくるかもしれない。


気がかりなのは、今年の夏は記録的な冷夏だった1993年と酷似しているらしいということ。本から顔を上げたら、梅雨も明けないまま、すでに読書の秋だったなんてオチは勘弁してもらいたい。

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2009年07月27日

リイシュー大渋滞

duran duranのオリジナル・アルバムはについては、やっと4thアルバムarenaまでリマスターが済み、紙のジャケットに入ったところ。今なおnotoriousとbig thing、80年代の作品2枚が手つかずのまま。すでに90年代の作品までも紙のジャケットに入れられるようになったことを考えれば、90年代初期のliberty/wedding albumまでは、少なくともリマスターが進んでいたとしてもおかしくないはず。また、80年代MTV世代の象徴として語られる存在でありながら、PV集の完全版もリリースされていない。サイド・プロジェクトについてもthe power stationがやたらと充実したリイシュー・デラックス盤としてリリースされた一方で、売り上げが影響しているとはいえ、arcadiaの方はあまりに露骨に放ったらかしである。


日本において2ndアルバムcolour by numbers以外、長らく廃盤状態にあったculture clubの作品もリマスターされめでたく紙のジャケットに納まったわけだが、それも3rdアルバムまで。4thアルバムfrom luxury to heartacheは90年代の廉価盤を最後にほとんど無かったことにされようとしている。また、紙のジャケットにばかり注力したためか、内容も言い訳程度にボーナス・トラック(日本より数年早くリリースされた輸入盤と同内容)が追加されただけ。名作colour by numbersさえ、デラックス仕様にならないのだから、boy georgeのソロ・ベストが実現しないのも当然といえば当然か。


80年代を代表する2大バンドのリイシュー化が遅々として進まず、これほど惨憺たる状態にあるというのは、偶然にも同じレコード会社に属するが故の不運と言うほかない例外中の例外。リリースされないのが不自然という時期はとっくに過ぎ去り、他のアーティストがそのネーム・バリューに見合う程度に着実にリイシューされていく中にあっては、ファンとしてはそのあまりの落差に、例外さえ常識として定着してしまった感がある。

だから、今さら何故と頭を捻るのも早くしてくれと意見するのも全く現実味がなく、こちらとしても諦めとともに放っておくしかない。



その一方で、まだ諦めるには早い、しかし「まだ出てなかったの?」という感じのリイシューやベスト盤といった企画については、duran duranやculture clubのように手遅れにならない前に、ファンとしても十分に意識しておく必要はあるだろう。

例えば、morrisseyのコンプリート・シングル・コレクション及び、PV集。少なくともmaladjusted期までを網羅した内容はあってしかるべき。日本に限れば、maladjustedまでのオリジナル・アルバムは、先日リイシュー・デラックス盤が発売されたsouthpaw grammar以外ほぼ廃盤状態でもある。robbie williamsもPV集がリリースされていないというのは意外というほかない。リイシューについては、a-haのオリジナル・アルバムがいっさい手つかずというのは、ほとんどduran duran/culture club的扱いのように感じるし、イギリスの国民的バンドwet wet wetのリイシュー・デラックス盤化はそろそろ実現してもいい頃である。


自分の好きなアーティストを中心に、サッと思いつくだけでもこれくらいあるし、廃盤状態の80年代の作品なんて挙げればキリがない。つまりこれだけ後が詰まっているということでもあり、改めて、いくら効率よく商売できるからといって、紙のジャケットに現を抜かしている場合ではないと思う。


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2009年07月25日

but i haven't got a stitch to wear

ハイヒールのコツコツという音が苦手だ。追い立てられているような、急かされているような気がしてどうにも落ち着かない。後ろからコツコツと聞こえてくると、音の聞こえないくらいまで駆け出さずにいられない。


今日もコツコツと聞こえてきたので我慢できずに街中で突然走りだしたのだが、何故かそのコツコツも離れずについてくるのには参った。追いかけられるようなこともしていないのに、一体何の真似だろうと苛立ち、睨みをきかせつつ振り返ると、その女性はちょうどそこに止まっていたバスに飛び乗ってしまった...。

そんな単なる偶然も嫌がらせのようにしか思えないほど、とにかくハイヒールのコツコツという音が苦手なのである。


窮屈なものを履いたうえに、余計な物音まで立てねばならない女性のお洒落も大変なものだと思うが、「お洒落には我慢がつきもの」とか「お洒落は足元から」などと言われていることからすれば、女性にとってハイヒールとはまさにお洒落の象徴のようなものなのだろう。そう考えると、ハイヒールを履かずに済むという点においてだけは、男に生まれてよかったと思える。



すでに流行やデザインなどという概念が欠落し、安さと機能性に導かれるままふと全身ユニクロだらけの自分の姿に気づき、さすがにこれはまずいかもしれないと苦笑するくらいなので、もちろん靴についても、余計な飾りが付いた重いものや、先が尖って反り返った悪魔靴などは論外。安さ以外で靴に求めるのは、いつでも走り出せるほどに軽いというその1点のみである。

自分については早々に諦めもついて、そんな風にお洒落と縁遠くなってもかえって気楽でいいのだが、もちろんほかの人にそんな諦めに由来する開き直りを押し付けるつもりもないし、男女問わず見目麗しき人が素敵に着飾っているのを見るのは目の保養にもなるからむしろ有難い。ハイヒールも音がしなければ一向に構わない。


しかし、流行やデザインにとらわれるあまり、自身の素材を見失っている様子を見るのは辛く、時には不快でもあり、また日常生活においてはそういった例を目にすることのほうが圧倒的に多い。やはり、あまり外見に拘らず自分が心地いいと思えるものを着て飄々としている方が、間違いも無く周囲にも迷惑がかからないだけでもマシなように思う。


oasisのnoelは、liamの立ち上げたファッション・ブランドについてたずねられた際、

「(ファッションなんて)ただの一機能でしかないんだ。俺が服を着るのは、街中で裸になることが法律で禁止されてるからさ」

と言い放った。


こんな風に断言してみたいものだが、「アンタには、そもそもお洒落する価値がない」と言われたら実際返す言葉も見つからないだけに、noelの意見に控え目に賛同するくらいに留めておこうと思う。

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2009年07月24日

いかにもmaladjusted

シングルのカップリング6曲をボーナス・トラックとして収録、その代わり何故かオリジナルに収録されていたroy's keen(アルバムからの2ndシングル)とpapa jackが割愛されてしまったmaladjustedのexpanded edition。

6曲のカップリング曲は、当時日本においてミニ・アルバム「ロスト〜レア・トラックス」としてリリースされたほどの名曲揃い。しかもそのサウンドもアルバムと同様の感触を持っているために、オリジナルの曲に紛れ込んでいてもさほど違和感がない。

それどころか重厚なmaladjustedとambitious outsidersを最初に、明け透けな問題作sorrow will come in the endを最後に配したことで、3曲目のtrouble loves meからポップでメロディアスな名曲がこれでもかと続くことにより、改めて楽曲のクオリティの高さには関心せずにはいられない。


morrissey自身による解説は無論当時のレコード会社への恨み節は忘れずに、今回はそれに加えsorrow will come in the end絡みで、例の裁判についてもかなりの字数が割かれている(ちなみにroy's keenとpapa jackの割愛については触れられていない)。

また、薄情なレコード会社に留まらず、morrisseyが“It is over before it begins”と表現するように、とにかくあらゆることが儘ならない状態だったということもうかがい知れる。


その後7年間リリースが滞るのも已む無しと感じる反面、儘ならない状況の中、これほど美しく繊細でしかも力強いアルバムを作っても、いやもしかしたら作るような人だからこそ、文字どおりmaladjustedとして7年間の潜伏を余儀なくされたのだと考えてみれば、後に見事な復活を果たしたとはいえ、そんな社会に対してはやはり大きな矛盾と歯痒さを感じずにはいられない。


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2009年07月23日

そして太陽は僕等を黄金に照らす

日食には何か特別なことが起こりそうな予感もするものだが、日中には陽も差し気温も27℃まで上がるから部分日食が見られるだろうと言っていた天気予報はいつものように当たらず、日食の時間帯の空には見事な雲がたちこめた。日食の神秘的な力を持ってしても、依然として当たらない天気予報のほうがむしろ神秘的といえるかもしれない。

そんなわけで早々に太陽を探すのは諦めなければならなかったものの、テレビの画面越しには究極にこの世のものなのに何故かこの世のものとは思えないほどの素晴らしい天体ショーを見ることが出来た。特に圧巻だったのは硫黄島と船上からの映像。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことであり、情けないと思う間もなく、ただひたすらに美しいという感覚しか抱けなかった。

いずれの中継地点も大勢の観測者の歓声、場違いなのを知ってかしらずか平生とかわらないトーンであまりに拙い言葉を接ぐアナウンサーやマイクを口にあてたまま「うぉー」「すごーい」に終始するレポーターの声が聞こえる中、硫黄島はNHKの解説員1人だけの中継だった。

ただでさえ静まり返ったところに、その解説者が皆既日食を見上げたまましばし言葉を失う姿が、かえって皆既日食を直に体験することの興奮と感動を伝えていたように思う。

そんな言葉さえ必要としない光景の前には、無類の音楽好きをしても音楽を必要としないものなのだが、今回はmikaのwe are goldenが鳴り止まない。半信半疑のまま前代未聞の高揚感と内からこみ上げてくる歓喜に身を委ねるしかなかったこの曲。皆既日食を見て、つまりmikaのwe are goldenは皆既日食級の曲なのだと納得した。

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2009年07月22日

衆院選テーマ曲決定!

7月の解散は史上初、さらに暑さが過酷なために真夏の選挙戦は回避される傾向にあったらしく、8月の投開票は帝国議会時代の1898年と1902年の2回のみ。今回が戦後としては初めてであり、実に107年振りの真夏の選挙戦ということになる。加えて、投開票まで40日間に渡る選挙戦も憲法の規定限度いっぱいの過去最長になるというのだから、それはテレビを中心としたメディアも大いに盛り上がらなければ損である。

早急に選挙関連番組のテーマ曲も決めなければならないところだが、選挙を歌った歌などなかなか見つからないし、一応選挙ということで、いつものように適当に軽薄な曲でごまかすわけにもいかず、それなりに頭を悩ませている関係者も多いものと思われる。

そこで、普段から上質な音楽に親しむ余裕のないそんなメディア関係者のために、僭越ながらも多少音楽に明るい立場から、今回の真夏の総選挙にピッタリの曲を紹介させていただこうと思う。


...などと勿体つけたわりに、ごく一般的な音楽ファンに対してはかえって単純すぎて申し訳ないくらいだが、どう考えても、いや考えるまでもなく、選挙といえばarcadiaのelection dayである。

タイトルがそのままで捻りがない点は申し訳ないを通り越して気恥ずかしくさえあるものの、偶然にも時を同じくして約20年ぶりにduran duranのライブのセットリストに復活したそのタイミング、真夏の選挙に相応しい“I pull my shirt off and pray, We’re sacred and bound to suffer the heat wave”という一節、さらに曲中に散りばめられた国民の視点にも通じるシニカルな表現まで、まさに今回の総選挙のための曲という感じがしてならない。


サビの“re-election day”というフレーズが、自民党寄りに聞こえてしまうかもしれないが、frankie goes to hollywoodのrelaxをCMや番組のテーマ曲に使用しても平気な日本であれば、そこまで注意する必要もないだろう。

また、このカッコいい曲に比して、画面のほうがどうしても貧相にならざるを得ないのは残念だし、duran duranに対しても非常に心苦しく、正直言えば選挙番組のBGMなどにするには勿体なくてたまらず、普通なら絶対に使って欲しくないところなのだが、arcadiaのアルバムso red the roseのリマスター・デラックス盤リリースのきっかけとなることを密かに期待すれば、そんなことも甘んじて受け入れられるのである。



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2009年07月21日

絶世のポップ

mikaの新曲we are goldenが素晴らしい。

素晴らしいでは全然物足りないほど素晴らしすぎる。


デビュー・アルバムにしてすでに完璧なポップ・アルバムだったlife in cartoon motion。当然、2ndはその路線を踏襲した、mikaらしい素晴らしいポップ・アルバム、いわば安定感の1枚になるだろうと安心しつつ、しかしその一方で、そうそう完璧を超えられるはずもないだろうからきっと想定内の出来に納まるだろうと、失礼ながら多少高を括っているようなところもあった。

よりよいメロディとよりよいサウンド、そこに1stに無かった目新しいアイディアが少し盛り込まれるだけでも、mikaの圧倒的なポップ・センスをすれば、それで十分だと思っていた...。


ところが、we are goldenというこの曲...、とんでもない曲だった。

すでに数え切れないほどリピートしているが、曲の素晴らしさにゾクゾクと震えが止まらず、そしてこんなことがあるものだろうかと未だ半信半疑状態も続いている。

mikaの縦横無尽のボーカル・ワークと完璧なポップ・センスに、ダイナミックなロック・グルーヴとゴスペル・コーラスの高揚感が加わったというだけでは、到底説明がつかない。

1stを軽々と凌駕するどころではなく、軽々と飛び越えつもりが、飛びすぎてたちまち天にまで達してしまったような印象だ。

メロディの良さなんてもはや太陽が東から昇り西に沈むよりも当たり前なものとしてそこに存在するところに、突如雲さえ突き抜ける光のタワーが聳え立ち、さらに無数の星が降り注ぎ、まさに黄金の光に包まれるが如きイメージが広がる。内からは抗い難い喜びがこみ上げてくる。高揚感もまばゆいほどのキラメキも破格、高揚感で表現されるよりも遥に高く突き抜け、キラメキでは追いつかないほどに壮大に光り輝く。


これほどの幸福感はめったに体験できるものではない。本当に素晴らしい歌をありがとう、mika。

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2009年07月20日

狂騒の後

今朝、ワイドショーでmichael jacksonのsmooth criminalのPVを見た。

9分程の長さをフルサイズで流すのには驚いたが、どうやらmichael jacksonの追悼企画として、すでに何度かPVをフルサイズで放送しているらしかった。

michael jacksonが偉大な存在であり視聴者の反響も大きいからこそ、こういったワイドショーらしからぬ企画もまかり通るのだろう。もちろん、ワイドショー的感覚からすれば、そういった盛り上がりに便乗した手抜き企画であることも間違いないわけだが、結果的に素晴らしい作品に触れられる上に、ワイドショー的くだらなさも軽減されるのだから有難い。


UKチャートを見ても、いまだにmichael jackson一色という感じであり、ここでもやはりその凄さを痛感せずにはいられない。

その一方で、彼の死にまつわるこの狂騒を冷静に眺めてみると、彼の才能や功績、作品のクオリティは生前から何ひとつ変わっていないにも関わらず、死後に突如として売り上げが伸びるという状況には、やはり違和感も抱かずにはいられない。


死をきっかけにして初めてその存在を知ったとか、改めてその凄さを再認識させられたという人の聴き方を否定するつもりはない。しかし、そこには生前のうちに彼の凄さに気づくことができず、さらにいえばメディアの情報に左右され本質を見極めることができなかった自らの迂闊さがあり、迂闊さゆえに生前に愛することが叶わなかった無念さもなければならない。


自らの迂闊さを棚に上げ、無念がることもなく、あるいはまたしてもメディアに誘導されるがままに、死をきかっけにして騒ぎ立てることを追悼と呼び、墓碑銘の如き賛辞を贈るだけならば、きっと我々はかけがえのない存在に対して、それを失う前にしっかりと向き合い、精一杯の愛と敬意を払うことの意味さえ見失ってしまうに違いない。

posted by atons at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする