2009年08月31日

ロビー・ウィリアムスの悲劇

日本のレコード会社からも、robbie williamsの新作情報が発表された。

オフィシャルの発表から20日を経て発表されたその内容に、特に目新しい情報は見当たらない。日本盤の発売日が11月11日、邦題が「ヴィデオ・スターの悲劇」に決まったというくらいのもの。

これを遅いと見るか、それとも20日間で発売日を決定し、余計なうえにそのまんまとはいえ邦題までつけたのはこのレコード会社にしては良くできたほうだと捉えるか...。

それは、もちろん後者である。このレコード会社にしては実に迅速な仕事ぶりと言っていいだろう。


普段から音楽への愛情に欠けたやる気の無い仕事ぶりであることは言うまでもないが、特にrobbie willaimsに関しては、日本で人気が出ないものだから早々に見限ってオフィシャルサイトも閉鎖のまま。そんな冷たい仕打ちからすれば、日本盤発売日とそのまんまな邦題を発表するまでに要したこの20日間という期間も、かえって短いくらいである。

ただそこには、trevor hornと組んだ話題性、そしてreality killed the video starというタイトルが、おりからの80年代ブームともリンクして、この日本でも多少の売り上げ増につながるかもしれないという計算が働いているに違いないことも、想像に難くない。


robbie williamsの最新作の日本盤発売が早々に決定したことを素直に喜べないのは寂しいことだが、それでも日本において正当な評価を受け、来日コンサートの実現につながるのであれば、オフィシャル・サイトを閉鎖しておきながら、売れそうだと判断した途端飛びついてくるレコード会社のえげつない姿勢さえも、ファンとしては甘んじて受け入れるつもりである。


「日本のレコード会社がイギリスのスーパースターを殺してしまった」とか「『ヴィデオ・スターの悲劇』ならぬ『ロビーの悲劇』」...なんて揶揄されることがないように、今回ばかりは心してrobbie williamsを日本中に広めてもらいたいと思う。
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2009年08月29日

mikaは地球を救う

眉間に爽やかな風が通り、かつてシワのあった場所に陽射しが照りつける心地がする。すでに歌詞もすっかり頭に入り、心の奥で口ずさめば、口元には自然と(おさらく)素敵な笑みさえ浮かび、足取りもこの上なく軽い。実に朗らかでいい気分だ。

レコード会社や音楽シーンについて苦情や批判についても、ファンの義務または音楽好きの使命として書いているようなもので、拙い表現力ゆえに相変わらずのトーンになってしまうものの、ここ最近は特に取るに足りないことに感じられる。

oasisからnoelが脱退したというニュースにも、「一度別々にやってみるのもいいでしょう」くらいに冷静でいられた。


頭の天辺がパカッと開き、たちまち黄金の粒子がそこから噴出してくるのだか空から僕をめがけて降り注いでくるのだか判然としないほどに溢れたかと思うと、今度は胸が真ん中からガバッと開いて、最高に気持のいい大風が、こちらもやはり吹き出すのだか吹き込むのだか分からないくらいにビュウビュウと、とにかくやたらと風通しがいい。

こうして書いてみるといわゆるトンデモな表現になってしまうのだが、これが嘘偽りのない感覚だから仕方が無い。




確かに、清き一票を投じれば日本が変わり、黄色い箱に募金すれば世界も救えるかもしれない。ただその一方で、眉間にシワ緒刻んだ険しい顔で他人をにらみ、舌打ちをし続けるならば、間違いなく自分自身は変わらず救われないままである。それで果たして本当に日本が変わるのだろうか。真の意味で世界は救われるのだろうか...。

mikaのwe are goldenを聴くたびに周囲が黄金に輝き出すのを目の当たりにしながら、そんな風に思った。


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2009年08月28日

エコか手抜きか

HMVからduran duranのリリースを伝えるメールが届いた。もちろん新作ではなく、“singles 81-85”という3枚組CDについて。

詳細は分からないが、こちらも10月12日に同じレコード会社からリリース予定のmorrisseyの“the hmv/parlophone singles 1988-1995”の内容と照らし合わせてみるに、どうやら2003年にリリースされたボックス・セットsingles 81-85をCD3枚に収めたものであることは間違いないようだ。

よく言えば「エコ・リイシュー」、率直に言うとこのレコード会社お得意の「手抜きリイシュー」である。なるほどこれでは、morrisseyが不買を訴えるのも当然、ファンとしても途端に購買意欲が削がれる。


帯や宣伝文句を変えたり、紙ジャケットに入れ替えるだけで、同じ素材で何度も商売することを専らにするこのレコード会社であるから、一度ボックス・セットとして売ったものを効率重視でコンパクトにまとめるというのは、さもありなんという企画である。


レコード会社にしてみれば、冷蔵庫の中にある素材でサッと料理を作ってしまうような感覚かもしれないが、ただそこに何の工夫も無く、何よりも気持がこもっていないものだから、どうしても美味しくはならず、こちらとしては食べてみる以前から箸をつけることさえ躊躇われる。

しかも、探さずとも手近なところにいい材料がいくらでもゴロゴロ転がっているにも関わらず、手間を嫌い、同じありものばかりで見栄えをちょっと変えた料理を作り続けているのだから、開いた口もずっと塞がらないままなのである。


それに、今回のリリースに際して、どうせならthe singles 1986-1995も同時にリイシューしてほしかった。

というのも僕が持っているthe singles 1986-1995のボックス・セットがCCCD仕様だからである。これはHMVの「価格が異なるだけ」という説明に騙されて購入してしまったもの。当時はまだCDは専らプレーヤーで聴いていたのために、そのままにしてしまったものの、CCCDゆえにいちいち取り出してプレーヤーで聴かねばならず、今となっては実にまだるっこしいし、何しろ14枚全部をCCCDにしてしまうねちっこいやり方、そしてその後CCCDなどなかったことのように、すっかり配信事業に力を入れて澄ましているレコード会社の姿勢は本当に許しがたいものがある。


したがって個人的には、今回の3枚組シングル・コレクションは、近い将来the singles 1986-1995が3枚組仕様でリイシューされ、CCCD盤ボックス・セットと引き換えにより半額ほどで購入できるようになって初めて、好意的に受けとめることができる企画なのである。

それまではやはり単なる「手抜きリイシュー」でしかない。

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2009年08月26日

今日からずっとwe are golden

mikaのwe are goldenがついにiTunes storeで配信開始。この素晴らしい曲を晴れて自分のiTunesに加え、いつでも手軽に楽しめるわけである。今日はもうそれだけで最高に幸せな一日だった。


すでにネット上でそれこそ数え切れないほど聴いているにも関わらず、またしても内側から抗いようのない喜びがこみ上げてきて、天にも昇るような気持になる。

よくアーティストが素晴らしい楽曲を作った際に、神とつながったとか、天から降ってきたメロディを掴んだなどと表現することがあるが、このwe are goldenという曲はまさにそんな感じがする。


天にも昇る気持を我慢して冷静に聴いてみれば、特に目新しい要素も見当たらないし、奇を衒うような仕掛けも無いない。むしろどこかで聴いたことがあるような王道のポップ・ロックという印象である。

それなのに、この曲は尋常ではない高揚感と興奮と感動が、もう収集がつかないほどに溢れかえっている。繰り返し聴いてもその衝撃が弱まる気配もなければ、一向に慣れることもない。いい歳をして聴く度に興奮し感動し取り乱し続けるばかり。

また目新しい要素が控えめにも関わらず、その衝撃が破格だったことに由来する半信半疑もいまだそのまま、いやかえってその度合いを深めてさえいるのだから、どうしても天とか神とか何か特別なものを持ち出さなければ説明のしようがない。



例えば、duran duranのordinary worldやrobbie williamsのeternity、wet wet wetのmake it tonightやelectronicのget the message。

何度聴いても飽きることなく、何年もの間コンスタントに聴き続ける曲がある。何故か、そういう曲に限ってその良さを上手く説明できなかったりするものだ。

mikaのwe are goldenも、その素晴らしさを上手く説明できないまま、しかし大切に繰り返し聴き続けていくことになると思う。


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2009年08月25日

weather with me

昨日の夜、外に出ると明らかに風が違っていた。すっかり秋の風だった。

iTunesのシャッフルから偶然に流れてきた前田愛の「夏の終わり」。これは秋のはじまりを伝える曲だと思った。

少々肌寒く感じ久し振りに掛け布団をかぶって寝たら、今朝の最低気温は11度だった。

山際からは夏のモクモクした雲がちょっとだけ顔を出し、こちらを名残惜しそうに眺めているようにも見える。

爽やかに晴れた空に、秋の雲が澄まし顔でスーッと広がってゆく。




雨量や日照時間からするとやはり天候不良の夏だったらしい。結局、梅雨明けもしないままだ。

しかし、出かけた日は軒並み晴れだったために、個人的にはそこまで物足りない感じもしなければ、夏の終わりの寂しさもさほどではない。

家を出る時に曇っていても、目的地に近づくにつれ雲間から太陽が顔を覗かせ、雲が散り、最後は必ず青空が出迎えてくれた。

我ながら「晴れ男」ぶりが堂に入ってきたように思う。太陽を愛する気持が太陽に伝わりはじめたに違いない。雨もしかるべき時を見計らって降り、雲もしかるべきタイミングで太陽をさえぎるようにさえ思えてくる。

crowded hoseのweather with youの一節、“everywhere you go, you always take the weather with you”の意味が、やっと分かったような気がする。



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2009年08月24日

20th century boyではない

テレビ放映された映画「20世紀少年」を見た。

内容云々以前に、t.rexの20th century boyをそのまま主題歌にしてしまうのは少々やりすぎのように感じられた。

もちろん、ロックの名曲にインスパイアされた小説や映画もあれば、映画やドラマの主題歌やBGMとして使用された曲も数え切れないほどあるわけだが、タイトルも主題歌もということになると、そのアーティストを扱った映画でもない限り、どうしても違和感を抱かずにはいられない。

単純に考えて極端に言えば、アーティスト本人の意向を慮ることなく、大胆におこがましくも自らの作品に同じタイトルを付け、さらには楽曲まで無断使用してしまうようなものである。


marc bolanから了承を得ることは不可能であるし、しかるべきところから使用許可を取れば何ら問題はないには違いない。

ただ、そのアーティストの楽曲を自らの作品のタイトルとして冠したいほどに影響を受け、またそれほど愛しているのであれば、尚更その辺には敏感であってもらいたいし、一方で自分のようにそのアーティストを愛しているファンが他にもいるということも念頭に置かなければならない。

自分の好きな曲が第三者の作品に利用され、しかも曲そのものまで使われることについて、複雑な心境にならないファンはいないだろう。



映画の中で唯一目を引いたのが、主人公がついに立ち上がろうとする直前、その煮え切らない感情を一度捨てたギターにぶつけるシーン。あんな風にカバーしたバージョンを主題歌にすれば、アーティストとファンへの配慮を欠くこともなく、またそれ以上に映画の世界観にもよほど合致しただろうと思う。


全体の冗長で散漫な印象も、そもそも安易に外部のモチーフに頼りすぎたことが影響しているような気がしてならない。

そして、できれば全て自前でやるに越したことはないとも思った。
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2009年08月21日

小杉

今さらながらブラックマヨネーズが面白い。

普段ならまず見ることのない昨晩の「黄金伝説」もブラックマヨネーズが出演するということで見てみたら、やはり大爆笑させられた。とにかく笑いたいなら彼等が出演する番組を見ればいい。それくらいハズレがない。どんなつまらない番組も強烈に面白い内容にしてしまう。


準レギュラー化しているタカアンドトシの「お試しかっ」における居酒屋の人気メニューを当てるというコーナーも、ほとんどブラックマヨネーズで持っているようなもの。特に小杉のコメントが見事であり、言葉のチョイスもタイミングも絶妙。全てが彼の発する一言の前フリになっているといってもいい、彼の独壇場という感じである。


先日の「アメトーク『小杉イジリたい芸人』」でも語られていたように、本来のツッコミとしてはもちろん、その風貌(特に頭周辺)について、つっこまれた時の返しも素晴らしい。「何を言っても面白くしてくれる」と誰かが言っていたように、言葉を受けとめ面白く消化する独創力と瞬発力が尋常ではない。



彼の才能のまえでは、自分の拙い文章表現がいかにも切れ味鈍く、恥ずかしく感じられてしまうし、単なるこじつけのレベルであることも認めざるを得ない。日本の音楽シーンについて皮肉るのでも、作品の素晴らしさを伝えるのでも、出来ることなら小杉のように鮮烈に絶妙に、そして面白く表現したいものである。


「天は二物を与えず」というが、千原ジュニアの言う「据わりのいい顔」とあの頭だけでも十分笑いが取れるところに類稀なる表現力と言語感覚まで備え、さらに最高の相方までいる。

二物三物にブツブツまで加わって、なるほど神がかり的に面白いわけである。
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2009年08月19日

少なくとも僕は待っていない

「今、最も多くの人々が待ち望んでいる」という某アーティストのCDが発売された。言うまでもなく、その「多くの人々」に僕は該当しない。もし僕もその発売を待ち望んでいたと勘違いしているなら、早急に除外してもらいたい。そもそもそのアーティストについては心待ちにするほど興味がないのだ。

あるアーティストの「待望のライブ」が決定したというのも、やはり僕は待望していないことを是非とも承知してもらたい。そこそこ名の知れたアーティストが地方でライブをするとなると、田舎者だから物珍しさでこぞってライブを見にくるだろうなどと思われては心外だ。少なくとも僕はそのアーティストが嫌いだ。たとえ無料でも観にいくつもりはない。


僕がどうしても買ってまで聴きたいとは思えないアルバムを待ち望んでいる人が100万人はいて、ほとんど罰ゲームとしか思われない歌を、あえてお金を払ってまで生で聴きに出かける人達が、この地方にも1ホール分はいるわけである。

つい誰もが待ち望んでいるという物言いをしたくなるのも無理はないかもしれないが、できれば安易な決めつけは避けてもらいたいものである。


それに、宣伝文句としてより積極的にアピールし多くの人達に聴いてもらいたいと思うのであれば、「多くの人々が待ち望んでいる」とか「待望」ではむしろパンチに欠けるように思う。どうせなら「全ての音楽ファン必聴」とか「必見のライブ」とか、聴くこと観ることを強いるくらいのほうが威勢があっていい。

そこまで強気に訴えるには、無論作品やアーティストがそれに見合うものでなければならない。素晴らしい内容だから多くの人々に聴いて欲しい、是非とも万人が聴くべきだと思えばこそ大それたことも言えるのである。

逆に言えば、そこまで強気に薦められないがゆえに、「ファン待望の」などと限定的な表現に留まるべきところを「多くの人々が待ち望んでいる」と及び腰をごまかしつつ多少色をつけたような煮え切らない宣伝文句にならざるを得ないのではないか。


確かに、多くの人々が待望しているといえば、何やらもの凄い人気で、人気のあるものはいいものに違いなく、これはなんとしても聴いておかなければなるまい...、ということになりがちである。

しかし、ある程度人気はあるかもしれないが、その内容はそれほど薦められるようなものではないらしい。また人気が必ずしも内容を伴うとは限らない。聴いておかねばならないものなどなく、是非聴きたいと思うものを聴くべきであり、是非多くの人に聴いて欲しいと思うものを薦めるべきなのである。

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2009年08月14日

知りすぎた男

日本盤の詳細がなかなか決まらなかったmikaのニュー・アルバム。

「日本先行発売・最新ライブ音源を収録したボーナスCD付」と威勢が良かったのはほんの一瞬のこと。そのボーナスCD付スペシャル・エディションは早々に生産中止扱いになり、その後アルバムのタイトル自体もwe are goldenからthe boy who knew too muchへと変更され、やっと落ち着いた先が「日本先行発売・ボーナストラック収録」という無難な線だったというのは実に嘆かわしいことである。

mikaの待望の2ndアルバム、しかもあのwe are goldenというとんでもない名曲が牽引する強力な一枚である。それをさらに豪華にするならまだしも、どんな事情があるにせよ及び腰でボリューム・ダウンさせてしまうとは...。


5日後には輸入盤のスペシャル・エディションが発売されるのだから、日本盤はとりあえず先行発売という付加価値だけにしておいて、スペシャル・エディションについては来日記念盤用に取っておこう...というくらいなそろばん勘定なのだと思う。

今さら日本のレコード会社に過度な期待もしていないが、あらかじめ発売日を調べその日を心待ちにしているような熱心なファンが蔑ろにされるこのお決まりの流れについては、もう少し誠意ある態度を見せてくれないものだろうか。


好きなアーティストの作品が発売されるたびに、そんな風に蔑ろにされ続けると、いくら健気な音楽好きをしても「あーもー、いやだいやだ」と投げやりにならざるを得ない。好きなだけに余計に情報を集め、それに翻弄され、挙句に蔑ろにされるのではいかにも割りに合わない。

例えば、何の前情報もなく、フラッと立ち寄ったCDショップで偶然mikaのwe are goldenが流れ、そのまま棚に並んだアルバムを買って帰るほうが余程気楽でいい...。



事情を知りすぎた男が、何か厄介なことに巻き込まれ酷い目にあうのは世の常、物語の必然。

the boy who knew too muchというタイトルにそんな意味が込められているかどうかは今のところ分からないが、とっくにboyの頃を過ぎた僕は、またしても知りすぎた男としてレコード会社から酷い目に合わされようとしているのである。
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2009年08月08日

エリザベスの理由

男性2人に女性ボーカル1人、しかもその男性2人がむさくるしい、いかにも「音楽以外興味ありません」というような風貌となれば、当然その2人が作った楽曲を、適当な女性ボーカルを連れてきて歌わせるものと相場は決まっている。日本などは特にその傾向が強い、というかそうでない例を探すほうが難しい。


だから、elizabeth & the catapultの楽曲全てをボーカルのelizabethが手がけているということを知った時は本当に驚き、また普通こういった編成についてまわる物足りなさが感じられず、この手のグループの作品としてはあり得ないほどの頻度で聴かずにはいられない理由が分かったような気がした。

それと同時に、失礼ながら「じゃあこのむさくるしい2人の男は一体何をしているんだ」と疑問を感じずにもいられなかった。もちろん今となっては、ギターとリズムを中心にしっかりとelizabethを支える役割を果たしていることを承知しているのだが、つまりそれほど日本で言うところのドリカム・スタイルにおいて、女性ボーカルがクリエイティヴな面でもイニシアチブを取っているのが珍しいということである。


そして、このelizabeth & the catapultというグループが、アコースティックでジャジーでスタンダードでポップなサウンドを基調にしながら、巷に氾濫する女性ボーカルものと一線を画している、いや全く別物足りえている理由も間違いなくその点にあると思う。

既製の楽曲をいくら巧く歌い上げても、たとえそこに自分の書いた歌詞を乗せたとしても、一から自分で作った楽曲を自分で歌うのには敵わない。無論、頭抜けて巧いボーカルや強烈な歌声の持ち主という例外はあるわけだが、普通はどうしても取ってつけた感を拭えないものである。借り物の歌を歌うのと自前の歌を歌うのとでは、自ずと楽曲と歌の距離が違ってくる。


elizabeth & the catapultのtaller childrenが、複雑で面白味のあるハイクオリティなポップ・アルバムであり、そこで聴かれるボーカルとメロディとサウンドの実に有機的な親和具合がむしろロックのそれに近いように感じられるのには、そんな理由があると思われる。
posted by atons at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする