2014年01月28日

スーツと素っ裸と振り子の関係

結局スーツと素っ裸と振り子の関係がよくわからないまま新しいCMに変わった。「オンとオフの切り替えが大切」的なことを言っているには違いないのだが、それしきのことを言うのにスーツと素っ裸の間に振り子をぶら下げる必要があるのか...、それとも何かもっと深遠なテーマがあるのか...、スーツを売りたいだけのCMで...などと考えてみるとやっぱりよくわからない。

どうしても素っ裸に引っ張られると、振り子は自然と具体的な形を持ち始め...つい下ネタのようにも聞こえ...素っ裸の股間に振り子が揺れているイメージばかりが残る...のは僕の中学生男子並の頭の問題としても、例えば「プライベートな時間を大事にするようにスーツ選びにもこだわって」などというメッセージを伝えるには素っ裸と振り子はまぁ無くていいと思う。坂本龍一がそれなりの雰囲気で渋くきめると何か有難く思えるのかもしれないが、普通の会話にスーツと素っ裸と振り子が並べば直接聞いた人はまず「はぁ?」という反応になるし、周囲の人たちにはきっと酔っ払いの奇行の話でしかないはずだ。

映像や音楽やその場の雰囲気に左右されるのは仕方ないにしても、単純に何を言っているのかよく聞いてみれば、ちょっといいことを言おうとした挙句スーツを脱いだら振り子がぶらぶらしてしまったり、今さら言うまでもない当たり前を繰り返すだけだったり、批判も批判していいところしか批判していなかったり、批判できないところはあえていいと言ってしまえば丸く収まる常套手段でしかなかったり...。

何となくそんな雰囲気で大きな声で言ったもん勝ちである点は、子供が数人集まって遊びを決める際に起こるひと悶着にも似ている。それを親の視点で見守ることができればいいのに...、一緒になって夢中でよく遊びよくもめる。
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2014年01月14日

ドMのポエム

今日の「クローズアップ現代」は「『ポエム化』の裏にあるもの」。太くて丸っこい字で書いた言葉をさらにトロットロに噛み砕いて何度も何度も繰り返すJポップに辟易してもうそろそろ現実を直視し始めているのかと思ったら、そのうえにまだ「居酒屋甲子園」なるものが盛り上がっていて、「幸せ」とか「仲間」とか「みんな」とか「夢」とかいった言葉に胸を熱くしている人達がたくさんいるという...。

あふれる“ポエム”〜不透明な社会を覆うやさしいコトバ〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3451.html

居酒屋のポエムといえば「急ぐとも 心静かに手を添えて 外に漏らすな松茸の雫」を即座に連想する世代からすると、どう考えてもキツイ仕事に低賃金を、耳障りのいい...とにかくやたらめったら前向きで感動を強いる言葉でごまかされているようにしか思えない。給料袋に店長のポエムが書いてあるなんてまるでブラック企業の風刺コントみたいで、「厳しい現実を生き抜くために現状を肯定」しているようにはどうしても見えない。「現状を肯定」というよりは現状が気持ちよくなってしまっている。つまりこれは「ポエム」ではなく「ドM」の話なのだと思う。

また、地方自治体の条例や町の名前まで浸食している件については、リーガル・ハイ(第1期 9話)に出てくる南モンブラン市そのもの。古美門の名演説が思い出された。

リーガル・ハイ(第1期 9話より)
http://www.youtube.com/watch?v=GGyaQsNb458
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2013年07月30日

方言の壁 タメ口の瞬間

「あまちゃん」に限らず例えば「どんど晴れ」の時もそうだったけれど、ドラマや映画で自分の暮らしている地域の方言が使われているのを聞くのには必ず違和感がついてまわる。まず日常生活においてあそこまではっきりと発音するということがない。それはもちろん標準語についても当てはまることで、演じる上においてはやむを得ないズレには違いないわけだが、標準語よりも無骨で基本ボソボソと面倒くさそうに話す方言では、そのズレが大きくならざるを得ない。

「どんど晴れ」にも出演していた宮本信子はかなり巧く使いこなしているにしても、あんなふうにきれいにはっきりと方言を話すおばあさんにはまずお目にかからない。年輩の人に聞いてもやはりおかしいと言う。いかにもな渡辺えりも方言を売りにしている地方タレント的な誇張が感じられる。かえって、同じく「どんと晴れ」に続いての出演となった吹越満のあのフワッした感じのほうが、さすが青森出身だけあってよほど日常生活で耳にする話し方に近かったりするのだ。

その一方で、東京からやってきて方言を使っているアキについては、端から現実にすり合わせる必要もないうえに、地元の人間より大袈裟になまったりおかしな使い方でもそれが北三陸への愛着へと転換される仕掛けにもなっているから、「...だが」なんてとても不自然にも関わらず微笑ましく受け入れることができてしまう。それがまたドラマ全体の方言に対するを違和感を軽減するような役目も果たしている。東京から来た主人公を誰よりもなまらせてしまうという、地方を舞台にしたドラマに課されるハードルを逆手に取ったこの設定がとてもいい効果を上げている。

目上の人に対してアキがすっかりタメ口になる場面も気になる。興奮して「じぇじぇじぇ」を連発した場合によく見られる。言うまでもなく方言なら敬語が免除されるというわけではなく、方言が根強く残る地域ほど目上の人への言葉遣いには厳しかったりする傾向にあり、改まった場面ではイントネーションがおかしかったり、やけに濁点が付いたりするの標準語混じりがローカルでリアルな言葉遣いとえいるのだが、...これも方言という新しい言葉を借りることで自分の気持ちをストレートに表現できるようになったアキだから許される、いわば魂の叫びであり、誰に咎められるどころかその度に相手や真相との距離をみるみる縮めているのも興味深い。

何故かはわからないけど...、この年になってふとまれに敬語を面倒臭く思うことがあり、アキがこのあたりの方言で地域も年齢も時代も越えてズンズン進んでいく様が妙に楽しい。だから「半沢直樹」についても、「倍返し」そのものより、タメ口になって呼び捨てになる瞬間が(堺雅人の演技もあいまって)余計に痛快で、つい声を出して笑ってしまう。
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2013年03月03日

目に余るドラマ

david bowieのthe next dayの全曲試聴が始まった金曜日。寝る前に我慢できず再度聴き出したらやめられず、全部聴き終わると案の定、興奮で眠れなくなった。テレビでは「僕が父親になるまで」というNHK札幌局/函館局の制作によるドラマが始まった。寝入り際にはちょうどいいかなと思ってそのままにしておいたら、どうもひっかかる箇所が次から次へと出てきてまた違う意味で目が冴えて、眉間にシワを寄せたり呆れたりしながら結局最後まで見ざるを得なかった。

大学生のカップル(大学を留年しつつもうすぐプロの道が開けそうなバンド活動をしている25歳の男とその彼女)に子供が出来て、親から反対されて駆け落ちをして、不安と迷いの中に生まれたばかりの子供を一度は手放すも、それがきっかけで改めて家族として強く生きていこうと決心する...というような内容。

彼女から子供が出来たことを打ち明けられて、父親になると決意した段階で正面切って彼女の両親に頭を下げに行かないところから不可解。ほどなくして駆け落ちに至る過程も突飛過ぎる。定期健診の病院で彼女の両親の名前を聞いたことがきっかけとはなっているが、ならばそれ以前に同棲するアパートくらい探しあてられていてもおかしくない。しかもその時点でかなりお腹が大きくなっていることからすれば、彼女の両親が渋々認めるという流れも十分に想定できる。にも関わらず逃げるようにして、こともあろうに臨月の彼女を連れて札幌から函館へ駆け落ち。

その後行き違いがあったりして、彼女は不安の中に思い余って産まれたばかりの赤ん坊を市電に置き去りにしてしまうわけだが、その行き違い方もあまりに不自然。それまで散々仕事中にスマホで連絡をしていたのに、出産直後で明らかに不安げなメールが届き、嘘でもいたわりの声をかけなければならないあたりから何故かぱったりスマホを手にしなくなる。バイト先に無理を言ってそれまでの給料の支払いと翌日の休みを融通してもらっておきながら、たった一言「今夜深夜バスで行く」と電話もメールもしない心情は全く理解に苦しむ。

たしかにバンドでの活躍を知る女性から声をかけられてついカラオケに行ってしまうくだりなどは、不安と迷いで投げ出したくなっているに違いないことをいかにも視聴者に察してもらいたいようにも見えるが...、しかしそれ以上に、ここで電話してしまったら物語の後半が成立しないという事情が優先されているようにしか見えない。何が何でも彼女に赤ん坊を置き去りにさせるように仕向けているとしか思われない。この描写では、半分寝ながらでもない限り視聴者の想像力を仰ぐのは難しい。「志村ー、うしろうしろ」の要領で画面に向かって「拓海(主人公の名前)ー、スマホスマホ」と言わずにいられないくらいに見え透いている。

バスに乗り遅れヒッチハイクしたトラックの運転手がこの手のドラマのこの手のシーンにありがちな台詞を寄せ集めたような台詞ばかり並べるのには胸焼けもするし、その運転手がガソリン代を断わって「それで花のひとつでも買っていってやれ」と言うのを、この緊急時に真に受けて(すでに彼女から「母親になれなかった」という内容のメールが届いた後、連絡がとれなくなっている状況で)花屋に立ち寄り、そこで「3人で暮らしていこう」と誓ったキーホルダーが目印になって偶然にも置き去りにされたわが子と出会う...というオチも白々しいというか稚拙というか...。産後1週間足らずの赤ん坊を抱いたまま真冬の函館の海沿いで「きれいになったよ」「いい顔になったよ」とちちくりあうに至っては、感動どころかひたすら嫌な気分しか残らなかった。

「一度はお互いを信じきれず諦めて投げ出しはしたものの、それによってお互いを知りまた本当に新たな一歩を強く踏み出すことが出来る」というようなテーマありき、あとはそれらしいムードでごまかしつつ、そこにたどりつければOK、...そんなドラマ、まるで紙芝居みたいだった。

朝になってすっかり寝不足の頭にもまだ引きずるほどだったので、一体どういう素性のドラマなのかと思って調べてみたら、置き去りにされた赤ん坊を助ける夫婦を中心に描いたドラマ「神様の赤ん坊」のアナザーストーリーということだった。メインストーリーのために都合よく配された若いふたりとその赤ん坊を不憫に思った。
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2013年02月03日

家族ゲーム

まず長渕剛主演のドラマ版に夢中になり、小学生のくせにその原作を読み、たしか高校生になってから観た森田芳光監督/松田優作主演映画版は僕にとって初めての奇妙な世界観だった。ドラマ/原作/映画を通して悉く強烈な印象を受けた作品であり、「家族ゲーム」という今では全然珍しくない単語の並びが今もまだ特別な響きを持ち続けている。

必ずしも子供が見るのに適当な内容ではなかったもものの、小学校の担任が「面白い」と言っていたのがドラマ版を見るきっかけだった。しっかりと長渕剛を認識したのもこのドラマからで、「GOOD-BYE青春」とパート2の主題歌「孤独なハート」はまだ実家にシングル盤がある。内容はきっと今見たらさほど面白いものでもないかもしれないが、長渕版吉本先生のコミカルで破天荒なキャラクターは子供心には楽しく憧れもした。オリジナルと大きく異なるとはいえ、小学生にとってはこのドラマがなければ原作も映画も知ることはなかったと思う。

映画版は、有名な横並びの食事シーンに咀嚼音のデフォルメ/点数の悪いテストを校庭に放り投げる/「夕暮れを把握しました」/鼻をすすってからのビンタ/吉本先生がつきあう妖艶な女性/風呂で豆乳/目玉焼きチューチュー...等々、普通のやり取りにかえって違和感を感じるくらいに奇妙なシーンが満載。それに松田優作のとらえどころのないねっとりとした怪演も加わり、当時はどう見てどう解釈したらいいかなんてさっぱりわからないまま、それこそ呆気にとられたまま...でもものすごく面白いと思った。

今回のドラマ化が原作/映画/ドラマのどれに基づくものなのか不明だし、もしかしたら全く異なる設定なのかもしれないが(むしろそのほうがいいと思う)、いずれにしても「リメイクなんてどうせつまらない」と決めつけて見ないでやり過ごすなんてことはできない。「家族ゲーム」のタイトルに恥じないものを作ってもらいたい、「家族ゲーム」は面白くなければならない...という思いがあるし、子供心にとても楽しかったドラマと背伸びして呼んだ原作といまだ強烈に奇妙な映画を一体どうするつもりなのか...しっかりと見届けなければならない。

その一方で、仮に内容がグダグダだったとしても、例えば宮川一郎太/由紀さおり/白川由美/伊藤四郎あたりをキャスティング、「夕暮れを把握しました」「チューチューできないじゃないか」といった名台詞を散りばめてくれるならそれだけでも及第点、見る価値は大いにある...というすっかり懐古趣味に留まる視点も当然あって...、つまりこうしてまんまと熱心な視聴者が出来上がるわけである。

映画「家族ゲーム」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=0s5Opi3v_FA

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2012年12月23日

Merry Christmas And A Happy New Year

今年もまた「サンタさんはもしかしたら来ないかもしれない。でも来なかった子には将来きっとその分いいことが待っている」みたいな無責任なことを言ってやがる。訳知り顔でテレビの前の子供に語りかけている時点で相当胡散臭い。テレビに出てチヤホヤされただけで何か一廉の人物にでもなったと勘違いしてなけりゃできないまねだ。世相を反映させつつ主な視聴者である主婦層に媚びたうえで他とは違うちょっと気の利いたことを言って、自らの存在感を示そうという魂胆も見え見えで、見てるこっちが気恥ずかしい。

たとえお願いしていたものと全く違うプレゼントが入っていたとしても、稀に何か事情があってプレゼントが届かなかったとしても、子供なりにその状況を消化してそれぞれに思い出に残るクリスマスになるものだし、クリスマスでも何でも実は待っている間が最高に楽しかったりもする。にも関わらず、気を利かせたふりして先回りして、せっかくの待つ楽しみに影を落としかねないことを言う...それが子供の想像力を見縊っているということに、子供達のところへサンタがやってくるのを邪魔しているということに気づいていない。その鈍さではサンタの都合など知りようはずもない。

しかも、連日クリスマス・ケーキやクリスマス・プレゼントの特集を放送して、デパートにフィンランドから本物のサンタさんが来たといって中継するそのほんのついでに、そんなことを言うから余計性質が悪い。サンタが来ないかもしれない家に対して心を割くなら、おいしそうなケーキや楽しげなプレゼントなど紹介すべきではない。幼稚園やデパートにまでサンタが来ているのに何故僕の家だけ来ないんだ...って話にもなる。

散々クリスマスをネタにして、子供を誘惑しておいて「...でもサンタさんが来なかった子には将来きっとその分いいことが待っている」なんてそもそもどの口が言えるのかと思う。クリスマス・ケーキやクリスマス・プレゼントを紹介するのと同じように、この先その分の幸せが待ち構えている可能性も提示してみせなければ説得力にも欠ける。でなければ嘘とは言わないまでも、単に自分の能天気な価値観を押しつける安っぽくてつまらなくて...偽善的で何の役にも立たない...テレビサイズのそこの浅い人生論でしかない。

ごく普通に「いい子にしていればきっと来るよ」で構わない。昔からずっとそうだった。そこに小賢しい我をねじ込もうするのはあまりに愚かしい。年賀状に「新年明けましておめでたくないかもしれません...でもそのうちきっといいことがあります」なんて書くバカはいない。


「サンタクロースの都合」2009/12/24
http://blogs.dion.ne.jp/atonsdemo/archives/9048467.html
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2012年07月08日

セカンド・オピニオン

尾野真千子の演技の余波でありきたりな物語がかえって新鮮に感じられ、堀北真希の声も朝らしく春らしく、程無くして平々凡々さが顕わになってからも、それはそれで毒にも薬にもらないという意味でむしろ朝にはちょうどよく、春が過ぎても堀北真希の優しい声の心地よさは変わらず、「カーネーション」と比べたらそれが見ているといえるのかどうかはさておき...何となく3ヵ月見続けてきた「梅ちゃん先生」。

しかしここに来てただぼんやり眺めているだけではすまなくなってきた。「梅ちゃん先生」というタイトルの1回15分のテレビドラマに、医療ものとしてリアリティに欠けるとか医師としての経験が足りないとか言う必要は感じない。ただそう容易には動きそうにない動くはずのない物語を、梅子のおっとりした口調でごまかして、実はかなり無理矢理展開させているのが目につくようになった。

「カーネーション」も事実とドラマの間に結構なほころびを露呈してはいたけれど、とにかく尾野真千子のドスの効いた演技にはそれを押し通してしまう妙な説得力があった。梅子のおっとりした性質も、医者を目指して学校に入り大学病院に勤務するまでの決められた道においては特に支障もなかったわけだが、開業という一大事までそれで乗り切ろうとするのはさすがに無理があった。

開業の決心もどこまで本気か判然とせず、それを証拠に費用にさえ無頓着、平気で実家を担保にしてしまう...、そんな梅子らしさがこの局面でもあっさり通用してしまったことで、(医療ドラマ云々とは別に)ドラマとして最低限必要なリアリティさえ失うことになり、ただ漫然と見ていた僕をしても「もうちょっと大学病院で経験を積んで収入を得てからでも遅くない、それが自分や家族のためばかりでなく、患者のためにもなるのでは...」とついもっともらしい口を挿まずにもいられない。

自身の恋愛に兄弟の恋愛、大学病院内の派閥争い、町医者を志すきっかけとなる出会い、そして無駄に引っ張る日替わり定食の場面等々、あれもこれも欲張って詰め込みすぎたせいで、肝心の医者としての成長が視聴者に明確に伝わっていないために、告知シーンも唐突で無神経にも映る。もっと言えば、梅子のおっとりをそのままにしておきたいがために、またはそのうえで何とか説得力を持たせる工夫をすることなく、父親を病気に、患者を重病にしたように見えてしまうのもいけないと思う。

中途半端に成長物語を描くよりもそこは大胆に端折って、「梅ちゃん先生」のタイトルに忠実にもっと早い時期に町医者人情ものにしてしまったほうがよかったかもしれない。そういう意味では今後また安定してくることも予想できるが、いずれにしても現時点での「梅ちゃん先生」は、医者としては信用ならず、物語の主役としては物足りない。
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2012年06月01日

わけあり映画

ふと思い立ってyoutubeで忘れがたい映画(及びその予告編)を見た。印象深いのになかなか見られなかったり、いつ見てもおかしくなかったのに見ていなかったり、見るたびに泣くくせに名作と呼ぶのが躊躇われたり...と、それぞれいわばちょっとワケありの忘れがたい映画。


「国際夜行列車(CAUGHT ON A TRAIN)」
http://www.youtube.com/watch?v=lG9VwSf40FI
http://www.youtube.com/watch?v=z7SI0eMdIU4

映画「国際夜行列車」を初めて見たのは中学生の頃。偶然乗り合わせた高慢な老婦人に翻弄されるというどちらかといえば淡々とした内容なのだが、国境を越える夜行列車が物珍しかったのと、映画全体の雰囲気も気に入ったらしく、テレビでやっていたのを何気なく見ていた割には強く印象に残り続けることになった。BBC制作のテレビ映画でありビデオ化もされておらず、深夜放送でもなかなかお目にかからなかったのを、90年代に入ってからテレビ東京(昼過ぎの映画放送の時間帯)で再度見ることができた時はとてもうれしかった。浦沢直樹「MASTERキートン」の「貴婦人との旅」というエピソードはこの「国際夜行列車」から着想を得たものかもしれない。


「それから」
http://www.youtube.com/watch?v=SgYAq69dXZs

森田芳光監督の「それから」は結局いまだに見ていない。テレビで放送も見逃している。松田優作/小林薫/風間杜夫/イッセー尾形と大好きな役者の揃い踏み、原作は高校生の頃から何度読んだか分からない。気になりつつも見る(聴く)機会が無かったという映画や音楽はよくあっても、ここまで見るべき条件が揃っていて見ずにいるのは我ながら妙だと思う。ただもうすっかり自分の頭の中でそのイメージが出来上がってしまっていたために、いくら貧相でも自前のほうを大事にしたいという気持ちが作用していたようにも思う。あとは藤谷美和子が僕の中の三千代のイメージとどうしても相容れない点も影響している。改めて予告編を見てもやっぱり声が全然違っている。


「異人たちとの夏」
http://www.youtube.com/watch?v=MozFUrhGz5s

一方少なくとも5回は見ているにも関わらず、好きな映画と言い切れないのが「異人たちとの夏」。風間杜夫/片岡鶴太郎/秋吉久美子の演技がとにかく素晴らしい。「父ちゃん坊や」的な風貌の風間杜夫は適役だし、鶴太郎は(「梅ちゃん先生」の安岡幸吉役もそうだが)職人気質の江戸っ子をやらせたら右に出るものはいない。若かった頃の母親が醸す何ともいえない色気は秋吉久美子でなければならなかったと思う。その3人による死別した両親と心を通わせるという物語は不思議でノスタルジックで暖かくて切なくて、赤々とした夕暮れと鍋から立ち上る湯気に両親の姿がかすんでいく別れのシーン、特に子供のように泣きじゃくり両親への素直な気持ちを打ち明ける風間杜夫の演技は、予告編の数秒のカットでも泣けてくる。

...とそこで終わっていればいいものを、一転して安っぽいホラー映画になってしまうのだから前代未聞の興醒め、さっきの涙を返してくれと言いたくなる。このシーン自体ばっさりカットするべきだと思うし、せめて名取祐子が宙を舞わず日本的な幽霊としてしとやかに振舞ってくれていたら...、「異人たちとの夏」はこんな微妙な扱いではなく、僕にとって大好きな日本映画のひとつになっていたに違いない。

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2012年05月13日

新しい朝が来ても

「カーネーション」のインパクトのあとでは色々とやりにくいだろうなと勝手な心配をしていた「梅ちゃん先生」だったが、オーソドックスな内容はあれこれ口を挿む間もなくすんなり馴染み、堀北真希の声とおっとりした話し方も朝向きで春らしく心地いい。震災後サントリーのCM(「見上げてごらん夜の星を」を歌手や俳優が歌い継ぐ内容)で聴かれた繊細かつ凛とした歌声が思い出される。

がさつで情に乏しかった「カーネーション」と尾野真千子のいわばドスの効いた(誉め言葉)存在感に対しては堀北真希の声も一層清々しく、朝の連続テレビ小説の典型ともいえるつくりもかえって新鮮にも映る。目新しさはどこにもないけれど、第一週のタイトル「あたらしい朝が来た」は「カーネーション」から続けて見た視聴者としての実感でもあった。

ただBGMがwhat a wonderful worldとover the rainbowをくっつけたようだったり、もっとあからさまにダースベイダーのテーマだったりする安易さにはちょっとしらける。主題歌についても、親しみやすさという一点においてはドラマにあっているとは思うけれど、菅野よう子作曲がもったいない歌唱は堀北真希の優しく美しい声とは相容れず、...かろうじてそれを引き立てているといったところ。


尾野真千子は最近CMでよく見かける。ひとつは彼女か新妻もうひとつは母親という設定だと思うのだが、いずれもほんの数秒の表情に引き込まれる。半年間に渡ってあれだけ灰汁の強いキャラクターを演じると、終了直後どころかしばらく悪くすれば一生あとを引きかねず、イメージを払拭するのに手こずってもおかしくないし、視聴者としてもまだ糸子として見てしまう時期に、もうすっかり別人、愛らしく可愛らしい彼女または新妻であり、「カーネーション」の糸子とは180度異なる慈愛に満ちた母親の表情も見せている。その存在感が結果的に「梅ちゃん先生」にまでいい影響をもたらしている点を含め、やっぱりこの人の演技は別格だと思う。
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2012年03月31日

「これはそのお話」ではない「カーネーション」最終回

3月3日に尾野真千子編が終了した後も、半年の習慣から「カーネーション」を見続けた。初回(3月5日)こそ「ほら見たことか」と思ったものの、しかしそれにしても力ない内容にはその手の張り合いさえ失いすぐに惰性に流れ、尾野真千子の強烈な存在感が、30年を駆け足で描いたこの1ヶ月よりもさらにはるか遠い昔の出来事のに思えるほど、寂しさの欠片すら兆さないままただただ味気なく淡々と過ぎていった。そのまま淡々と終わればまだよかったものを、時が過ぎて明るく前向きに始まったかと思ったら無理矢理涙をねじ込み、そこから千の風になって、下手くそにドラマ内ドラマへとリンクさせてしまった...今日の特に残念な(形式上の)最終回には苦笑しか出てこなかった。

尾野真千子を欠いた時点での大方の予想どおりでもあり、またそういう反応が視聴者に支配的であることはいくらなんでも製作側も承知していただろうから、(それを覆すのは難しいにしても))何か一矢報いる策を用意したうえでの主役交代なのではないかと多少身構えるところもあったがその気配すら認められなかった。

「ひとりの女性の人生を描ききる」とか「老いてなおその生き方を貫く」という視点からいえば、可もなく不可もなくそれなりの内容ではあった。しかし、その可もなく不可もなくありきたりな感じが「カーネーション」の世界観とは決して相容れず、実在のモデルに対してその晩年を描く義理があったとしても、「カーネーション」のタイトルのもとに、尾野真千子から小原糸子を取り上げて、昌ちゃんや恵さんといった魅力的な脇役に暇を出してまで描かなければならないようなものではなかったと思う。1ヶ月の短期間に登場人物たちがまるで将棋の駒のように配置されるに至っては、すでに続編やスピンオフでもなく、続編やスピンオフの総集編という感じさえした。

「90歳過ぎたら思い出なんてどうでもいい。大事なのは今とこれから」という台詞を用意しながら、そのわりに過去の因縁があちこちに顔をのぞかせ、奈津はまだしも周防の娘まで出てくる見え透いた安っぽい仕掛けには(実際にそういった事実があったならやむを得ないが...)もう一度小さく呆れざるを得なかった。

尾野真千子編との関係性となると別物のさらに別物くらいの懸隔があり、蛇足にさえなりえなかったのが唯一の救いではあった。かえってここまで力ない内容では尾野真千子の演技をしても蛇足になりかねなかったとすれば、彼女にとってばかりでなく「カーネーション」にとっても、交代は賢明な選択だったのかもしれない。

ただそれはあくまでも糸子の人生を描ききらねばすまなかったこの1ヶ月の展開に限られる。改めて尾野真千子の演技ありきで考えれば、必ずしも晩年まで描かなかったとしても、こんな風に「老いを生きる」的なエッセイやドキュメンタリーのような見せ方をして、わざわざ言わんとすることを噛み砕き、いわば老いを描くのに老いに拘るの弊に陥ることなく、老若男女問わずよりダイレクトにそういったメッセージも十分に伝えられることができたはず。...というか尾野真千子の演技に魅せられえもいわれぬパワーを与えられた視聴者に今さらそんなメッセージなど必要なかったのではないだろうか...。

皮肉などではなく実感として、「カーネーション」が3月3日に最終回を迎えていたと思わざるを得ないのはまさにそのためであるし、ゆえにまた最後の一ヶ月がこんな形で終わってしまった今となっても、尾野真千子の演技の凄さとそれにグイグイ引っ張られた「カーネーション」の素晴らしさは微塵も揺らぐことなく、「カーネーション」はやはり傑作だったといえるのである。


「尾野真千子のすごい間」(10月21日)
http://blogs.dion.ne.jp/atonsdemo/archives/10436724.html
「主役交代」(1月24日)
http://blogs.dion.ne.jp/atonsdemo/archives/10598933.html
「最終回」(3月3日)
http://blogs.dion.ne.jp/atonsdemo/archives/10656027.html
posted by atons at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする